パワースッポットの旅 奈良編
吉野「吉水神社」
こんにちは!
得得サイトです。
日本有数の桜の名所として知られる吉野山は
桜の時期になると全国から吉野の桜を見ようとたくさんの観光客が押し寄せ、
吉野がそこそこの山(標高350m)だということを忘れてしまうほど、人で賑わいます。
そんな桜の観光地として有名になる一方、吉野の歴史については影が薄いような気がします。
お花見に来て初めて吉野山の歴史を知ったという方も少なくないのではないでしょうか?
今回は吉野山の歴史とともに「吉水神社(よしみずじんじゃ)」をご紹介します!
吉野山の歴史
修験道と桜の木
山には神さまが宿り、山がご神体として祀られた山岳信仰の時代、吉野山から大峰山の一帯は「金峯山(きんぷせん)=金のみたけ」と呼ばれ、山に籠って修行する人々が見られるようになりました。いわゆる修験道(しゅげんどう)の山伏(やまぶし)と呼ばれる人々です。
修験道とは御神体である山の中に籠って厳しい修行をすることで悟りを得るというもので、日本古来の山岳信仰が道教の入山修行などの影響を受け、仏教と結びついた日本独特の宗教です。
「修行によって迷いを除き、験徳を得る道(教え)」がその言葉の意味で、神域である山で修行し、験力(げんりき)という神通力と悟りを習得して人々を救済するそうです。
今から1300年ほど前、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ=役行者)が金峰山に籠り、厳しい千日修行によって「蔵王権現」を感得(信心が神仏に通じ、感じ悟ること)して桜の木に刻み祀ったことが吉野山(「金峯山寺(きんぷせんじ)」)の始まりと伝えられています。
その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行し、金峯山は「日本三大修験道」の聖地となり、金峯山寺への参詣も盛んになって御神木の桜の木が献木され続け、桜の名所となりました。
吉野の桜はお花見のために植えられたものではなく、山岳宗教と密接に結び付いた信仰の桜なんですね。
現在シロヤマ桜を主に約200種、3万本の桜が吉野の山を覆い、麓から頂上へと順番に咲き上がっていく様子は壮観で「千本桜」「一目千本」等と形容されてきました。
南北朝時代
足利尊氏(あしかがたかうじ)、楠木正成(くすのきまさしげ)などと
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、「建武の新政」で足利尊氏の反感をかい、
反乱にあいます。足利尊氏に敗れ逃げてきたのがここ吉野です。
足利尊氏が光明天皇をたてて「北朝」(後の室町幕府)をひらいたのに対し、
後醍醐天皇は正当性を主張し「南朝」をこの吉野にひらきました。
現在、皇居跡公園として整備された「吉野朝(南朝)宮址」には
「南朝妙法殿」が建ち、後醍醐天皇以下、南朝4帝の尊霊と先の大戦の戦没者追悼の施設となっています。
源義経
吉野山には義経が身を隠したと言われる「義経隠れ堂」があります。
朝廷から無断で官位を授かったという理由で兄の源頼朝の怒りを買い、京都から都落ちして逃げ込んだのが、またこの吉野でした。頼朝の追っ手が差し迫り、義経らが身を潜めたとされる金峯神社のこのお堂は、義経がその屋根を蹴破って逃げたので「蹴破(けぬ)けの塔」とも呼ばれています。
もとは役行者が修行した場所で、現在も修験者の修行場として利用されています。これから大峰山に登る修験者は中に入って扉を閉め、暗闇の中を神官の先導に従って「吉野なる深山の奥のかくれ塔 本来空のすみかなりけり」と唱えながら塔内を巡るそうです。
中が見えないかなぁと近寄ってみましたが全く見えず。
そりゃそうですよね。
中が見えたら真っ暗になりませんもんね。💦
吉水神社(よしみずじんじゃ)
大通りからちょっと脇道に入り、吉水神社へ向かいます。
坂道を登ってひとつめの門をくぐるとちょっとしたスペース(駐車場)があり、その横から吉野山(中千本と上千本)の桜を一望できます。
吉野山の桜は約200種あるといわれていて、品種によって花びらの色も形も違うので、グラデーションが美しく「一目千本」と書かれた言葉のとおり、色とりどりの個性豊かな山桜が目を楽しませてくれます。
吉水神社(当時は「吉水院」※)は文禄3年(1594年)に太閤秀吉が盛大な花見を催した際の本陣となったことでも有名です。徳川家康、伊達政宗、前田利家、宇喜多秀家などの武将を含め総勢5000人も引き連れて、歌・茶・能の会など5日間にもわたってドンチャン騒ぎしたそうです。さすが秀吉、派手ですね〜
※吉水神社は、神仏分離の影響を受けて明治8年に「吉水神社」と改められるまでは、「吉水院」という金峯山寺の格式高い僧坊でした。
落ち葉ひとつなく掃き清められた清浄で心地よい空間の中、ご本殿に参拝させていただきました。
御祭神は後醍醐天皇、楠木正成と宗信法印が合祀されています。
弁慶の力釘
ご本殿に向かって右手に「弁慶の力釘」 とかかれた棒が立っていました。
近づいて案内板を読んでみると、頼朝の追っ手が迫ったときに弁慶が親指で釘を石にぶち込んで威嚇したそうです。
よく見てみると、確かに釘が石に埋まっていました。
親指、穴開かなかったのかな?
案内板の文章
「弁慶の力釘」
弁慶の力釘の石は、弁慶が力試しに二本の釘を親指で石へ押し込んだもの、と伝えられています。
- 弁慶力釘のいいつたえ・・・続きを読む
- 「源義経」が吉水院(ここ吉水神社書院)の僧坊にかくまってもらっていると知った兄の「頼朝」の追手はわめきました。
「ここに義経が隠れているであろう。出てまいれ!」
それを聞いた弁慶は顔を真っ赤にして、そばにあった釘を2本抜き、やにわに表に飛び出すと大声で叫びました。
「やあやあ われこそは弁慶なり 力自慢をいたそうぞ!」
そして、追手たちの真ん中にあった岩に全身全霊の力を込めて、親指で釘2本を打ち込みました。
弁慶の形相と火事場の馬鹿力ともいえる怪力を目の当たりにした追手たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ去ったそうです。後に「豊臣秀吉」(太閤さん)も花見の際に、この「弁慶力釘」に「力をもらいたい・・・力を!」と言って触れた、と伝えられています。
弁慶が渾身の気で打ち込んだ石に触れ、元気と勇気を授かりましょう。
神社のお墨付きともとれる、パワースポットのようです。
太閤秀吉にならって、パワーをいただきましょう!
最古の書院と御宝
ご本殿のすぐ隣には日本住宅建築史上最古の書院が建っています。
世界遺産に登録されており、もちろん、国の重要文化財です。
現在の日本住宅の源流をなす実例として数々の珍しい手法が見られるそうです。
修復中のため外観は見られなかったのですが、中は見学可能だったので拝観させていただこうと中に入ってびっくり!
有るわ有るわ、宝の山、これから吉野山に登るのに、時間足りるかな~と心配になったほど。
建築手法を見ることなどすっかり忘れてしまいました。(*^_^*)(次回、ゆっくり見させて頂きたいと思います。)
それもそのはず、吉水神社は
歴史ある神社のため、それぞれの時代の遺品や宝物が書院内に所狭しと展示されています。
後鳥羽天皇の玉座、義経・静御前の潜居の間(歌舞伎・人形浄瑠璃の『義経千本桜』の舞台の場所です)、花見の間などそれ自体も見応えがあり、狩野山雪の襖絵、秀吉愛用の金屏風、義経の鎧、弁慶の七つ道具、蝉丸法師の琵琶などなど、本当にいろいろあります。後から知ったのですが、なんと、ここは写真OKだったそうです!「あぁ、知っていれば~」と脱力感。みなさん、拝観される際には、思う存分写してください。
でも、やはりフラッシュは自粛した方がいいですよね。せっかくのご厚意、恩を仇で返さないようにマナーと気づかいはお忘れなく。
お宝については、吉水神社ホームページで紹介しているので、ぜひ、ご覧ください。
(吉水神社ホームページはこちら)
裏庭の凄いパワースポット
書院の裏庭に「北闕門(ほくけつもん)」とよばれる門があります。
吉野自体が「蘇り」の霊地として古来からパワースポットでしたが、この北闕門は、「力がもらえる」「元気がもらえた」と人気が出て、現在究極のパワースポットになっています。
吉野山から大峰山へ入山する修験者(山伏)は吉水院で入山許可書をいただき、この北闕門で邪気をはらって無事下山できるよう祈願しました。
後醍醐天皇も京都の宮中を偲びながら、いつか戻るという思いで朝夕とこの門に立たれ、邪気払いしたと言われています。
ここから「蔵王堂」が見えますが、その遥か向こうが京の都になるそうです。
足元の石板のマークは「セーマン(星形)ドーマン(網目状)」ですね。
セーマンは阿部清明、ドーマンは蘆屋道満に由来するともいわれ、陰陽道と関係があるのではとも言われています。
邪気払いの方法は「九字真法」。「九字を切る」という、あれです。
門の近くに切り方が書いてありました。
これは簡略した切り方で、本当は九字それぞれに印を結んで切るそうです。
自分も案内板を見ながら切ってみましたが、簡略されているのに、ぐちゃぐちゃになってしまいました。(*^。^*)
でも、なんとなくそんな気になり力が湧いてきたような感じも。。。
邪気祓いはこれから向かう未来に待ち受ける災難などの「悪い気」を事前に取り祓うために自ら行う護身法で、作法に従うことで、誰でもできるお清めとのことなので、興味がある方はやってみてください。
最後に御朱印 をいただく際、「勝手神社はどうされますか?」と聞かれ、勉強不足の自分は失礼にも「勝手神社?」と聞き返してしまいました。
勝手神社は吉水神社から吉野山山上へのぼる街道を少しいったところにあります。
ところが、平成13年(2001年)、不審火によって社殿が焼失してしまったそうなんです。
初めて吉野にきたため、まだ訪れたことのない神社でしたが、不審火と聞いて心が痛みます。
これから山上へ向かう途中にあるようなので、先に御朱印をいただくことにしました。
(御神体は復興まで吉水神社に仮遷座されているので吉水神社で参拝できます。ご本殿に向かって右側にお祀りされていました💦)
勝手神社(かってじんじゃ)
勝手神社の在りし日の姿を拝見して、歴史を感じる美しい社殿に惹きつけられました。
ご本殿は桃山様式の「三間社流造」で、檜皮ぶきの二棟を箱棟でつなぐ連棟式の珍しい社殿で奈良県指定の文化財でした。
現在は、義経と吉野に逃れてきた静御前が追手に捕らわれ、法楽の舞を強要された舞殿跡(舞塚)が残されています。
勝手神社は「五節の舞(ごせちのまい)」の発祥地とされています。
壬申の乱(672年)の際、大海人皇子がこの神社の神前で戦勝を祈り箏を奏でたところ、背後の振袖山から天女が舞い降りて5度袖を振りながら舞ったといいます。これが吉兆となり、皇子は戦に勝利して天武天皇として即位したとのことです。
このことから、「勝運・必勝の神様」「芸能の神様」「山の神様」「桜の神様」として広く信仰を集めてきました。
歴史ある、このような神社が無くなってしまったのは、とても残念です。
現在本殿再建のための計画が推進中で募金を集めていて、毎年桜のころには、再建委員会主催で「勝手神社再建祈願・吉野桜花奉納祭」が勝手神社境内で開催されています。(雨天は威徳天満宮神楽殿)
宮司さんによる降神の儀などの神事が行われた後、起源伝承の「五節の舞」をはじめ、雅楽・箏・尺八・太鼓・三味線・サックス、神楽、舞踊などなど、いろいろと披露されるようです。
勝手神社が一日も早く再建されることを祈り、陰ながら応援したいと思います。
(勝手神社再建の詳細についてはこちら)