「七面山の瀧」~養珠院お萬の方と東日教上人

七面山のしちめんさん表参道入口(羽衣はごろも登り口)から
後ろを振り返ると羽衣橋の向こうに滝が見えます。

白糸の滝

この「白糸の滝」のたもとには
「お萬の方」像があります。

白糸の滝とお萬の方

養珠院ようじゅいん・お萬の方。

ご存知のとおり、徳川家康の側室で、
徳川御三家の初代藩主・
紀州「頼宣‐よりのぶ」と、
水戸「頼房‐よりふさ」の生母で、
水戸光圀(みつくに)公の祖母であり、
8代将軍、徳川吉宗(よしむね)の曾祖母でもあります。

家康には記録に残るだけでも20人の妻がいたと言われていて、
11人の息子と5人の娘がいました。

徳川家の血を絶やさないように
3人の息子を徳川将軍家から独立させて
御三家(紀州、水戸、尾張)を創生させるわけですが、
そのうちの2人がお萬の方の子で、
後には紀州徳川家から8代将軍吉宗よしむねと14代将軍家茂いえもち
水戸徳川家から15代将軍慶喜よしのぶが誕生しており、
お萬の方は見事に江戸幕府中興の礎を築き、徳川家の繁栄に貢献しました。

お萬の方は熱心な日蓮宗の信者としても知られ、同宗の隆盛にも寄与しました。

養父の実家「蔭山かげやま家」が代々日蓮宗を信仰していた影響で
お萬の方は幼少期から日蓮宗と縁があり、蓮華院妙紹日心れんげいんみょうしょうにっしんと称していました。
妙法蓮華経と日蓮(宗)の心をうけ継ぐ美しい蓮の花、みたいな感じでしょうか?
養珠院ようじゅいん」という院号は、家康の死後、髪をおろしてから称したそうです。

文禄2年(1593年)、
お萬17歳の時、家康の側室になります。

家康は当時54歳、
かなりの年の差婚ですね~

家康は浄土宗でしたが、
お萬の方の法華の信仰はとても篤く、
さまざまなエピソードがあります。

ここ、七面山の女人禁制を解いたのもその一つです。

信仰対象だった山は「女性が登るとお山の空気がけがれ、災いをもたらす」
といわれていました。

七面山も女人が登ると七面天女のお怒りがあるとされていましたが、
お萬の方はこの白糸の滝で7日間の水垢離みずごりをし、心身を清めて、
女人として初めて七面山の山頂をきわめ、七面山女人踏み分けの祖となりました。

これが寛永17年(1640年)のことで、
お萬の方が64歳の時ですね。

七面山麓の白糸の滝
羽衣白糸の滝 落差25メートル

身延山久遠寺の七面山登詣案内には、
「滝にうたれて」とありました。

もはや滝行の域。
64歳で7日間も。
(一説では21日間)。
すごい!
水垢離の後さらに約2000メートルの登山ですもんね。
すごいです。

この白糸の滝では、今でも、
心身を清めるために滝行をする信者さんが見られるそうです。
※滝行を行う際は、滝を管理する近くの増田屋旅館さんに事前連絡が必要です。

善女龍王図-長谷川信春(等伯)

七面天女とは日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神で、
全国各地に祀られていますが、七面山山頂にはその本社「敬慎院」があります。

七面天女の本地は諸説ありますが
龍女」とされた一説には、
女人禁制が解けたことにより、
提婆達多品だいばだったほん女人成仏にょにんじょうぶつと結びつけられたからと言われています。

提婆達多品とは、法華経に説かれている話で・・・続きを読む
それまで成仏できないとされていた悪人や女・子ども・動物(畜生)でも
法華経の教えにより成仏できるという内容です。

提婆達多品(平家納経)
提婆達多品(平家納経)

その話の中で、法華経の力によって
即身成仏するのが、八大龍王のわずか8歳の娘(龍女)です。

日蓮聖人は
「龍女の成仏は決して龍女1人の成仏ではなく、一切女人の成仏である。
龍女は未来にわたってすべての女人成仏の道を開いた」
という内容の記述を『開目抄かいもくしょう』(日蓮聖人の代表著作)に残しています。

この記述を、お萬の方も目にしていたのでしょう。

お萬の方は、
「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずがない。」(日蓮宗事典より)と水垢離し、登山に臨んだそうです。

お萬の方の信仰の篤さと行動力には驚かされます。

お萬の方
慶長13年(1608年)、
お萬の方32歳の時には
家康にずっとうとんじられていた日遠上人にちおんしょうにんが死罪にされそうになったのを、
日遠上人を死罪にするなら自分も死ぬ!と2人分の死装束を縫って
家康に嘆願し、助けたそうです。

詳しく読む
家康は江戸城で浄土宗と日蓮宗(当時は不受不施派ふじゅふせは)の宗論対決(慶長宗論)を開催します。

この宗論に日蓮宗は破れ、家康から「念仏無限」(日蓮宗の宗祖日蓮聖人が浄土宗を批判した言葉で、念仏は無間地獄に堕ちる業因の意)は、経典にない空論であるとの誓状せいじょうの提出を求められます。阿弥陀仏誓状提出を拒否し、宗論を上申した日遠上人(日蓮宗本山・身延山22世)は当然、家康のお怒りをかい、はりつけの刑を申し渡されます。

この時日遠上人を救ったのがお萬の方でした。
日遠上人に帰依していたお萬の方は、「上人の法難に殉じる」と2人分の死装束を縫いだしたそうです。

家康もビックリ、日遠を放免します。

この事件は当時かなり話題となり、
感銘を受けた後陽成天皇ごようぜいてんのうは「南無妙法蓮華経」と直筆し、お萬の方へ下賜かしされました。

その後日遠上人は身延山の麓・大野に隠棲しますが、
お萬の方は、日遠の庵を頼宜と頼房に命じて整備させ、大伽藍を建立します。

これが現在の大野山本遠寺おおのさんほんのんじのご由緒で、お萬の方は遺言どおり、
本遠寺に今も眠っています。

養珠院(お万の方)御墓
強い志を持ったお萬の方は、
徳川一門の隆盛に尽くし、
法華篤信の人として諸寺建立するなど、宗門にも多大な影響を与えた、
偉大な女性でした。

七面山羽衣白糸の滝のお萬の方像の足元にはお花が供えてあり、
お線香を手向ける人もいるようです。
信者さんにとっては、お萬の方も信仰の対象になっているのでしょうか。

お萬の方像(足元)

私たちが七面山に登れるのも、お萬の方のおかげですね。

養珠院・お萬の方(1577~1653)・・・続きを読む

将軍徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖頼宣、水戸徳川家の祖頼房の生母。天正五年上総勝浦城の正木左近大夫邦時の娘として生れ、のちに伊豆加殿(かどの)に移り、伊豆河津の城主蔭山長門守利広の養女になったと伝えられる。お万の方は幼少より法華経に結縁していたと考えられる。文禄二年(1593)一七歳、縁あって徳川家康に仕え、その美しい容姿と誠実な人がらから深く愛され、晩年の家康に最も寵愛された女性となった。慶長三年(1598)二二歳の時養父母を喪い、以後深く仏教に帰依し、追善の誠を捧げ、僧の供養をおこたらなかった。慶長九年、心性院日遠は三三歳の若さで身延山久遠寺に晋山したが、お万の方は日遠の行学兼備の高名を聞き、彼に師事した。慶長一三年、家康により江戸城中で常楽院日経と浄土宗との法論が命ぜられた。対論の前夜、日経は暴徒に襲われ法論不能となったが、幕府は法華宗を負とし、全国の日蓮宗諸寺に念仏無間の文証なきことの誓状を出させた。これを聞いた身延日遠は直ちに家康に抗議し、浄土宗との再対論を求めたが、家康の怒りにふれ駿河安倍川で磔刑に処せられんとした。これを知ったお万の方は、今こそ法華経の大事とばかり、日遠と共に法難に殉じようとして家康にその覚悟を伝えた。さすがの家康もお万の方の信心の固さにうたれ、日遠を許したのである。この話は天聴にも達し、後陽成帝はお万の方の信仰を讃えて首題の七字を大書し、彼女に送っている。その後、日遠は刑余の身をはばかって大野に隠棲したが、お万の方は息子の紀州大納言頼宣と水戸中納言頼房に命じて大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺である。以後お万の方の本宗外護の丹誠は厚く、聖人の霊蹟復興に尽力し、新寺建立、身延山久遠寺、池上本門寺ほか主だった寺院に寄進し、徳川時代における発展の礎を築いた。

寛永一七年には、それまで女人禁制であった身延の七面山に、「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と、白糸の滝で七日間の水ごりをとって、初めて女人として山頂をきわめた。七面山女人踏み分けの祖とされるゆえんである。(日蓮宗事典より)

 

 

七面山の麓にはもう一つ、
お萬の方の滝と雌雄一対になる、
雄瀧と呼ばれている滝があります。

羽衣橋から見た雄瀧弁天堂
羽衣橋から見た雄瀧弁天堂

お萬の方像から200~300mほど上流にあるのですが、
前回は運動不足で七面山に登るのが精いっぱいで、雄瀧弁天堂おたきべんてんどうまで
行かれなかったので、今回リベンジ、
雄瀧を見に行ってみました。

羽衣橋から見た雄瀧弁天堂(アップ)

雄瀧弁天堂への道

赤い幟旗(のぼり旗)に導かれて、よばれるような不思議な感覚がしました。
この弁天堂への道は結界の道なんだそうです。

弁天堂という名のとおり、弁天様が祀られていました。

お堂の奥に滝がみえます。

雄滝弁天堂と雄瀧

 

 

七面山麓の雄瀧

雄瀧は行場として全国的に知られている名瀑で、水量が多く流れも速くて、
普段は荒々しい瀧らしいのですが、ちょうど水量が少ない時だったらしく、
比較的おだやかな感じを受けました。

弁天堂 縁起

滝のそばにあった縁起には
正中山法華経寺・奥之院(千葉県)の東日教あずまにっきょう上人が雄瀧で行をしていると
天女の姿が見え、霊感を感得し、お堂を建立したとあります。

水、天女とくれば弁財天か~
七面天女さまではなかったのね、
でも本地は弁財天の説もあるし・・・
と思いながらググっていたら、
やまなしの観光サイトの記事を発見。

昔は、もともと何もない所に瀧だけがあったそうです。このお堂を建てた方が、瀧に入るとなぜか辨天べんてん様が現れたのだとか。何度もそういうことが続き、この周辺を探したところ、朽ち果てたお堂があり、そこに弁天様が祀られてあったそうです。そこでその弁天様を持って帰り、修理をし、小さなお堂を立てました。これが雄瀧辨天堂の由来です。この瀧は昔、とても荒れていて、瀧行をするには難しい所だったそうです。このお堂を建てたとき、みんなが安全に瀧の修行ができるように弁天様を祀られ、何年もかけて祈り続けてきた結果、滝行が出来る程の状態になっていったとのことです。

日蓮宗新聞社によると、雄瀧には
古くから多くの行者が修行に訪れていたがあまりに危険な滝だったので
東日教上人が、誰もが安心して行のできる瀧にしたいと一念発起して
昭和26年に開堂し、中山妙宗の法華経寺分院(通称:雄瀧弁天堂)
として信仰されてきたそうです。
(2009年(平成21年)に日蓮宗の日教教会となる。)

雄滝弁天堂に参詣し心願成就のご利益をいただいた方が相次いだので
満願弁天堂とも呼ばれているそうです。

雄瀧には修行目的の方だけではなく、
最近は、心願成就で弁天様のご利益をいただくために瀧に入る方もいらっしゃるそうです。

秋には紅葉が美しく、
冬は氷瀑になるという、
美しさと雄々しさを備えた雄瀧。

弁天様のご利益をいただきに、
雄瀧弁天堂まで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

願満弁財天(中山法華経寺奥之院)
願満弁財天 (中山法華経寺奥之院)