パワースッポットの旅 出雲編
「稲佐の浜」
こんにちは!
得得サイトです。
今回は★パワーてんこ盛りの砂浜★「稲佐の浜」です。
真っ白な砂浜と美しい海岸線が続く『稲佐の浜』は、
日本のなぎさ100選に選ばれています。
稲佐の浜は夕景も素晴らしく、
「日が沈む聖地出雲」として日本遺産にも登録されています(2017年)。
出雲大社から西へ、
ひたすら歩くこと20分くらい(?)
(距離にして1.3キロほど)で
弁天島が見えてきます。
突き当たった道を渡り、海岸へ降りると
『稲佐の浜』の真っ白な砂が!
この真っ白な砂には
ご利益がいっぱいあるんです。
詳しくは後ほど。
まずは、弁天島のご祭神「豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)」にご挨拶。
弁天島
稲佐の浜に一際目立つ大きな岩、
この岩こそ弁天島ですが、
古くは「沖之御前」と呼ばれ、
砂浜から30メートルほど沖にありました。
昭和40年代までは、
夏祭りなど弁天島にお参りする時は
臨時の橋が架けられ、橋を渡って参拝していたそうです。
- ところが、・・・
続きを読む - 昭和40年代後半から砂の堆積が目立つようになり、
ついには陸つづきとなり、
20年くらい前からは歩いて渡れるようになったとのこと。
防波堤や漁港の整備による潮流の変化や湾に注ぐ神戸川周辺の環境変化などが起因しているとみられています。神話伝承の地の環境・景観の変化に、地元では問題視の声もあがっているようです。
この弁天島にある沖御前神社には
神仏習合のころは、弁財天が祀られていましたが、
現在は豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)が祀られています。
明治頃からということなので、廃仏毀釈の影響と思われますが、
島が「弁天島」と呼ばれているとおり、
弁天さまは人の心の中からは消し去れなかったのでしょう。
豊玉毘古(豊玉彦命)
豊玉毘古命は海の神様です。
「豊玉彦命」とも表記され、
日本書紀では「海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)」の表記で登場しています。
「海神(わたつみ)」とは字のごとく、
日本神話の海の神様のことで、転じて海・海原そのものを指す場合もあります。
娘の「豊玉姫命(=豊玉毘売命 とよたまひめのみこと)」は、神武天皇(初代天皇)の祖母とされています。
父「豊玉彦命」と娘の「豊玉姫」は協力して国を統治していたようです。
- ヒメヒコ制のおはなし
「豊玉彦」・「豊玉姫」のように、ヒメ・ヒコのペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれます。・・・
続きを読む - 巫女である女性の補佐により 王が政治の実務を行うというもので、
代表的な例が邪馬台国の卑弥呼と弟の関係。ヒメヒコ制の統治下にあったとされる地域には、ヒメ・ヒコを神社名やご祭神名にしている神社が見られます。
神奈川県の「相模國一之宮 寒川神社(さむかわじんじゃ)」はその一例で、御祭神は、寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)の二柱を寒川大明神として祀っています。
ヒメヒコ制は仮設だそうですが、「古事記」や「日本書紀」、「播磨国風土記」には、ヤマト王権が成立する前後の古代日本では、祭祀的農耕従事的女性集団の長を「ヒメ」、軍事的戦闘従事的男子集団の長を「ヒコ」と称して、分業し協力して一定地域を統治していたことが記されています。
豊玉毘売命(豊玉姫命)
豊玉毘売命(=豊玉姫命)は、上の「豊玉毘古命」でもご紹介しましたが、父の豊玉毘古命と共に協力して統治していました。
- 豊玉姫命は神武天皇(初代天皇)の祖母とされている尊い神様ですが、
出産の場面を夫の「火遠理命(ほおりのみこと)」にのぞかれてしまい、夫婦別離の悲劇の人生(神生?)をおくります。・・・
続きを読む - 火遠理命は兄から借りた釣り針を海でなくしてしまい、海の神である豊玉彦命の宮を訪ねます。
そこで豊玉姫と出会い、夫婦として3年間をその宮で過ごしますが、夫の心中を察した豊玉姫は、父に頼んで釣り針を見つけ、夫の火遠理命を地上へと帰還するよう取り計らいます。
豊玉姫はその時子を宿していましたが、お産の時は海辺にあがるので用意して待っていてほしいと火遠理命に告げます。
約束どおり海辺で二人は再会し、豊玉姫は火遠理命に「出産のときは、生まれた世界の姿で子を産むので、見てはならない」と伝え、産屋に入ります。
不思議に思った火遠理命は中をのぞいてしまいます。
火遠理命がそこで見たものは、豊玉姫が巨大な八尋鰐(やひろわに)、つまりサメとなってのたうちまわっている姿でした。
本来の姿を見られてしまった豊玉姫は、恥ずかしさと怒りで、生まれた御子を置いて海の国へと戻り、海への道を閉ざしてしまいます。(この御子とは、初代神武天皇の父「鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズのみこと)」で農業と漁業の神様です。)
この神話は人間と違った種類の存在と人間とが結婚する「異類女房譚(いるいにょうぼうたん)」の説話類で、女から課せられた約束を男が一方的に破り別離を招くという、異類女房譚のパターンです。現代でいえば、「鶴の恩返し」もこの部類ですね。
神武天皇の父も登場して始祖誕生のニュアンスをふくめ、神々による国土統治の神代の終わりを暗示しているとも言えます。
神迎の地
一年に一度、八百万 の神々が全国から出雲に参集し「 神議 り(縁結びなどの会議)」をおこなう際には、この稲佐の浜にまず降り立ち、出雲大社へ向かうと言われています。
旧暦10月10日の夕刻、
稲佐の浜には御神火(ごじんか)が焚かれ厳かな雰囲気のなか、
全国から集まってこられた神々をお迎えする「神迎祭」が
出雲大社によって執り行われます。
浜に降り立った神々は、
御使神「龍蛇(りゅうじゃ)神」さまの先導で出雲大社まで御神幸します。
「神籬(ひもろぎ)」とは、
神様にお降り願う依代(よりしろ)で、この神籬に神様が宿るそうです。
なぜ2本あるかというと、お泊りになる「十九社」が出雲大社本殿の東西にあるからで、東の十九社には、出雲大社より東の神々が、西の十九社には、出雲大社より西の神々がお鎮まり(お泊り)になるのだそうです。
一般に10月は「神無月」といいますが、
ここ出雲では全国からたくさんの神々が集まるので、
「神在月」と言われます。
神様がいっぱいいらっしゃるなんて、
10月に出雲にいるだけでご利益ありそうな感じがしませんか?
でも、地元の人たちはこの時期を
「お忌みさん(おいみさん)」と呼ぶそうです。
神様の会議の妨げにならないように、
静かに謹んで過ごすことから、御忌祭(おいみさい)→お忌みさんで、
会議が開かれる期間中(神在祭中)は、歌舞音曲(歌ったり踊ったり、楽器をかなでたりすること)や家を建てるなど騒がしいことはご法度だそうです。
とにかく静粛を保ち、
粗相のないようにつつましく、
特に神さまをお見送りする日(旧暦10月17日の神等去出祭(からさでさい)の日)の夜は神さまがあちこちにいらっしゃるから、夜遊びなどせずおとなしくしているという風習が昔からあるそうです。
「神さまがいっぱい」と気楽にはしゃいでいたら逆にバチがあたるかも?
ここは八百万の神様に感謝して参拝しなくては、ですね。
上宮(かみのみや)
出雲に集った神様は、大国主大神の主宰で
『神議り(かみはかり)』を行い、
男女の縁だけでなくいろいろな縁や、来年の収穫などについても決めるといわれています。
出雲大社(境内の十九社)にお泊りになるので、境内のお社で神議りすると思いがちですが、
実は、神議りは境内外の別の場所で行われます。
その場所は稲佐の浜から東に少し入ったところにある、
上の宮(かみのみや)です。
上の宮は出雲大社の摂社で、素戔嗚尊と八百満神が祀られています。
上の宮から稲佐の浜へ向かう途中にある、
末社の「下の宮」(御祭神は天照大御神)もセットで参拝するのが正式だそうです。
周りは一般の住宅がたっていて、とても静かで時がとまったような感じがしました。
「潮汲み」とおもてなし
「塩」は神様にお供えするもののひとつですが、私たちの生活の中でも、
お清めや盛り塩したり、お守りにしたりします。
稲佐の浜のあるここ大社町では
稲佐の浜の海水で清めはらう、
「潮汲み(しおくみ)」の風習が古くから受け継がれています。
その方法は独特で、
越峠荒神社から「神迎えの道」をとおって稲佐の浜へ向かい、
「潮汲み箍(たが)」と呼ばれる竹筒に海水(潮)をくみ、
出雲大社までのお社(因佐神社-下の宮-上の宮-大歳社-都稲成社を順番にめぐって、各神社で稲佐の浜で汲んだ潮を笹の葉で撒き清め、
最後に出雲大社に参拝します。
出雲大社に参拝した後は、持ち帰った潮を、同じように自宅の玄関、神棚(仏壇)、各部屋、家族に振りかけ清めるそうです。
毎月1日は、「神迎の道の会」によって潮汲み行事が行われています。
一般の方が参加できるツアーもあるようです。(潮汲みセットの購入は、古代出雲歴史博物館ツアーデスクになっていました。)
「神迎えの道」とは、神迎祭で稲佐の浜に降り立った神々が出雲大社へと向かう際にお通りになる道のことで、民家が立ち並ぶ細く静かな道です。
道沿いの玄関先などには、この潮汲みに使われる竹筒に季節のお花が活けてある風景が見られます。
歓迎・おもてなしの意があるそうです。
これぞ日本の美、「わびさび」、心が和みます。
ちなみに、神門通りで、稲佐の浜の海水から造られたパワーあふれる「神迎えの塩」を発見しました。
とてもかわいい店内で女の子がいっぱいでした。女のコ(彼女)のお土産にバッチリです。
もちろん、「おばさん」にも喜んでもらえました。
(「神迎えの塩」についてはこちら「神門通り」のブログをどうぞ)
稲佐の浜の砂
稲佐の浜がパワーてんこ盛りの砂浜といっても
この砂をただ持って帰ってもご利益はありません。
出雲大社境内、御本殿の後ろにある素鵞社(そがのやしろ)でこの砂にご利益を頂きます。
この砂にというか、この砂を奉納して、かわりに奉納してあるお砂を頂きます。
素鷲社には大国主大神の父神といわれる、ヤマタの大蛇を退治した須佐之男命が祀られています。
すぐ背後にはご神体ともいわれる八雲山がそびえていて、その岩肌に触ることができ、隠れたパワースポットになっています。このパワーをいただいたありがたいお砂を頂くというわけです。
パワー砂の頂き方
1.まず弁天島の豊玉毘古命さまを参拝します
2.参拝後に砂浜の砂を頂きます
※必要以上に取りすぎないように。砂を頂いたら、地面をならして穴ぼこなど無いようにしてあげてください。
3.稲佐の浜の砂を持って、出雲大社・素鷲社に向かいます
4.素鷲社でお砂(パワー)を頂きます
1)素鷲社の正面(階段下)にて、一礼
2)階段を上り一礼
3)素鷲社前にて、二礼四拍手一礼
ご挨拶をしたら、素鷲社の左側から裏にまわります。
細くて人が通るのがやっとです。
裏には砂箱が有りますので
4)稲佐の浜から持って来た砂を奉納し、奉納してあったお砂を頂きます。
5)正面に戻り一礼
6)階段上にて、一礼
7)階段下にて、一礼
このお砂には、邪気を祓う力、幸福の力があると言われています。
家の四隅(東西南北)に撒いたり埋めたりすることで家と家族を守っていただけるそうで、家を建てる時の地鎮祭にも使われるそうです。
神棚にお供えしたり、庭や畑に撒いたりもされます。
田畑にまくと作物の成長を見守って頂けるそうで、作物がよく育つとか。
もしお時間があれば、出雲大社参拝の前に稲佐の浜によって、ご利益あるお砂をいただいてください。
国譲り~出雲大社の誕生
稲佐の浜は国譲り神話の舞台となった場所でもあります。
国譲りの神話は、天照大神などの天上界の神々が、大国主大神が少彦名神(すくなひこなのかみ)と造り上げた地上の出雲の国を手に入れようとするお話です。
有名なお話しですが、サクッと記しておきますので、よかったら
- こちら(国譲りのおはなし)をどうぞ
- 国譲りのおはなし
天照大神は天上界から豊かで素晴らしい出雲の国を見て是非手に入れたいと思い、大国主大神のもとへ使者を遣わせ、出雲の国を手に入れようとします。度々使者を遣わせては失敗におわり、遂には力づくで手に入れようと、建御雷神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を遣わせます。
2人の神は稲佐の浜に大きな剣を立て大国主大神に国を譲るように迫ると、大国主大神は「二人の息子にも聞かないと決められません。」と応えました。
そこで2人の神は息子のうちのひとり、事代主神(ことしろぬしのかみ)のもとへ出向きます。
事代主神は国譲りをあっさり認め隠れてしまいました。
もう一人の力の強い息子、建御名方神(たけみなかたのかみ)は、建御雷神と力勝負を挑みますが、これまたあっさり負けてしまい、諏訪(長野県)まで逃げてしまいましたが、追いかけてきた建御雷神に国譲りを認め、さらに諏訪の地から出ないと約束させられてしまいます。
以後、建御名方神は諏訪で鎮まる(暮らす)ことになりますが、建御名方神が暮らしたその場所には後に社が築かれ(諏訪大社)、現在も戦神として祀られています。
この建御名方神と建御雷神との力勝負は相撲の起源と云われています。
この結果、大国主大神は国を譲ることを決心します。
国を譲ることを決心した大国主大神は、条件をだします。
大国主大神が鎮まる(暮らす)ための立派な宮を建てること(出雲大社の創建)、
そして天津神(天上界)の子孫が栄えていくのと同じように自分の子孫も絶えることのないように約束し、その証として「神の火」を燃やし続けること。
その交換条件として天照大神は大国主大神に黄泉(よみ)の国の政務をとることを言い渡しました。
国をとられたり、黄泉の国には行かされたり、なんだか大国主大神さまがかわいそう・・・
屛風岩
国譲りの舞台は稲佐の浜ですが、正確にはこの「屏風岩」の前で行われます。
高天原(天上界)から使者として遣わされた建御雷神と大国主大神は、この岩を背にして国譲りの話し合いをします。
建御雷神は大国主大神と国譲りの交渉を上手く成立させた雷神・剣神・武神として鹿嶋神宮(茨城県)、春日大社(奈良県)に祀られています。
屛風岩は稲佐の浜から50メートルほど陸地へ入ったところの、一般の方の家の敷地内ではないかと思われるようなところにあります。もし見に行かれるときは、ご迷惑にならないように、気をつけましょうね。
まとめ
稲佐の浜がパワースポットと言われる理由は
八百万の神が降り立つ聖なる浜
海水(潮)のお清めパワー
砂のご利益
など。
夏は穏やかで白い砂浜と青い空の美しい景観、
冬は一転して荒れ狂う日本海の厳しさ、
いつの季節でも夕日に映える「弁天岩」が迎えてくれる稲佐の浜。
私たちが今見る稲佐の浜は、
神代の目にはどんな景色を映していたのでしょうか。
稲佐の浜まで「神迎の道」を歩きながら、古代の出雲に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。